[96]会議

介護保険について今回は小休止しよう。今回は「会議」について語りたい。今回俺はあくまでも「福祉業界での」会議について語るが、問題の本質についてはどの世界でも共通するものがあるかもしれない。その点において、福祉以外の職場に勤める読者諸君にも参考になれば幸いだ。
介護や福祉には無駄なものが多い。その中でも最も無駄なものの一つに俺は迷いなく会議だと主張する。俺は持論として「例え1時間でも他人の時間を無駄にする人間は一生を無駄にしかねない」という考えをもっている。時間は限られていて、しかもお金で買えない。だからこそ時間を無駄にする会議は許しがたい。しかし、それでも会議は大事だと金科玉条のように言う人もまだいる。じゃあそういう人に聞きたいが、企業はどうやって収益を挙げるのだ?
普通の会社はモノやサービスを顧客に売ることにより収益を挙げる。福祉の場合は介護や援助をすることにより収益を挙げるのだ。ただ会議をしているだけではお金は1円たりともゲットできない。しかも会議をしている間、人件費や雑費、光熱費はどんどん失われていく。会議をして、それがどれだけ営業利益に結びつき、しかもそこから経費を引いた純益はいくらなのか、そのコストパフォーマンスはどうなのか?それらを客観的な数字で吟味した統計を俺は未だに見たことがない。殆どの経営者がそれには興味がないようだ。コスト削減に励むのであれば無視できない数字のはずだが。しかも、職員にサービス残業をいくらさせても平気なケチ経営者でもなぜか会議の場合は残業代を払うことが多い。それだけ会議の時間を神聖大事に考えているわけだ。在宅のサービス担当者会議のようにしなければ減算になったり、収益に結びつくという条件ならまだ会議には価値があると言えるだろう。しかし、多くの福祉施設や事業所は明らかに仕事以外の目的で会議をしている。
じゃ何のために無駄な会議をしているのか?一言で言ってしまえば上司や管理者の自信の無さや無能ぶりを隠すために行われているのだ。大体会議なんてイランや北朝鮮などの独裁国家の選挙と本質的には全く同じだ。独裁国家は「非民主的だ」と非難されたくないために形ばかりの選挙をする。企業や施設の会議も同じだ。経営陣や上司たちが「自分たちの独断で決めたのではなく、みんなで決めた」と言わんがために会議をしている。だから「どんどんみんなの自由な意見を聞かせて欲しい」と会議で言われても真に受けないほうがいい。発言の内容次第では北朝鮮と同じように収容所送りになりかねない。なぜなら会議のもう一つの目的は「組織の和は大丈夫だ」と経営者やリーダーたちを安心させることにあるからだ。権力の座にいてもいつその権力を失うのか不安に駆られる上司は実に多い。皆の前で上司に反対意見を述べるなど一番許しがたい行為なのだ。
また会議をすることによりコミュニケーションが円滑になり、団結力や士気が上がると主張する人もいる。だが、会議を飲み会や親睦会と同じように考えるなど問題外だ。大体、自由な発言も許されない会議でどうして士気が上がるのか?結局形ばかりの民主主義やチームワークなど上司たちの精神的安定を満たすための歪んだエゴの産物に他ならない。
言っておくが俺は会議など独裁政治で構わないと思っている。会議は国会ではない。どうせ職員皆が同じ意見になることなどありえない。「皆の意見を聞く」などそんなぬるいことをやっていたらそれこそ紛糾して、民主主義の欠陥である衆愚政治になってしまう。こんな時間の無駄をやるよりもリーダーが自分の責任と勇気をもって決断をする方がいい。そんなことも判らないリーダーが今は多すぎるのだ。
しかし、無駄なだけならまだいい。会議は時間を無駄にするばかりか、とんでもない害悪をもたらしている。その害悪とは職員のモチベーションや向上心を奪い、やがては離職や組織の機能不全を起こしかねないものだ。次の条件に該当するような会議をしているなら要注意だ。
(1)月に累計2時間以上会議をしている。
(2)決められた時間に終わらない。
(3)休みの職員も招集するなど、できるだけ最大限参加者を募りたがる
(4)多数決を取るとどれか一つの案に偏ることが多い。
(5)1週間に1回、1ヶ月に1回など必ず定期的に行われる
(6)メインの会議が始まる前にメイン会議で何を話し合うかなど司会や上司たちの間で打ち合わせが行われている
(7)やたら念入りの会議レジュメを作る
(8)会議後の議事録を平然と修正する
(9)会議後、一部の人間たちで話し合いをしている
(10)会議の時にやたら熱心になる職員が多い
次回はこの続きを語ろう。
エル・ドマドール
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