[113]ペーパーワーク

2018年8月25日

社会福祉施設や介護事業所などで働いているとどうしても書類作業というものがある。ケアプラン、業務日誌、ケース記録、介護記録、看護記録、申し送り簿などや利用者が怪我した時に書く事故報告書などあまり書きたくないものまで書くことがある。福祉の事をあまり知らない人はヘルパーや介護職は介護ばかりしているイメージがあり、記録物を書くところはあまり想像できないかもしれない。だが、そのイメージとは裏腹に社会福祉関係者とは極めて記録物を書くことが大好きな人種だ。
事務職の人間ならペーパーワークが多いのは納得できる。しかし、介護が本業であるはずのヘルパーがペーパーワークをこなす姿は少し意外 かもしれない。だが予想に反し、彼らの記録物への執着ぶりはなぜか病的なものが多い。先ほども言ったが、福祉関係者は記録を至極大事だと考える人種だ。中には記録に熱中するあまり、本業の介護をないがしろにしている福祉関係者は少なくない。職種や分野によるが、中には介護をしているよりもパソコンや書類に向かっている時間の方が長い介護職も少なくない。特に老人福祉分野では介護保険制定後は書類作業がか なり増えた。おそらくデイサービスなどを除き、ヘルパーが老人利用者とじっくり話す時間は1日1時間いや30分もないだろう。ただでさえ、介護や作業などで利用者と話す時間は少ないのに、更に記録する時間がコミュ ニケーションの時間を奪う。
「利用者との信頼関係」などよく口にする福祉職員はいるが、皮肉なことに介護職員ほど人の話を聞かない人種はいない。健常者の話もろくに 聞こうとしないなら、障害者や認知症老人の話など初めから聞く価値なしと決めつけている。勿論、介護や記録に追われてゆっくり話を聞く時間がないと言う理由もあるが、どちらにしても利用者の話をろくに聞かないことは同じだ。この態度で信頼関係などとよくそんな事が言えるものだと感心する。
介護保険制定後、利用者本人やその家族の権利意識も変わり、介護記 録の閲覧を求める人も増えてきた。また都道府県の指導のせいでもあるが、施設や事業者側も利用者とトラブルになった時に備えて記録物をきちんと職員に書かせる風潮が強い。そして、一般の人々や家族も記録物がきちんと丁寧に大量に書かれてあれば、介護もきちんとしていると思い込む傾向が強い。また現場でも記録物を大量に書く職員ほど人事面で優遇されやすい現実がある。だが、ここではっきり言うが事実は全くの逆だ。
記録物がきちんと正確に大量に書けると言うことはその分介護に直接関わる時間は減っているということだ。ヘルパーは弁護士でもなければ、行 政書士でもない。逆に言えば、きちんと仕事をするヘルパーは記録には時間をかけられないと言うことだ。だから、皮肉なことに介護をよくするヘルパーほど低く評価される傾向がある。そしてこれは利用者の家族も同じように解釈する傾向が強い。介護記録やケース記録を利用者や家族に公開する施設は増えてきているが、そこでも記録されている内容が少なかった り薄かったりすると、「ウチの親はろくな介護を受けていないのでは?」と誤解する人が少なくない。
昔ながらの施設はペーパーワークは今と比べてかなり少なかった。一日に何をしたか?例えば「午後は気分が悪いと言って居室で休む」など大雑把な記録だった。しかし、今は違う。施設によれば一日単位ではなく、時間単位で何をしていたかということも書かなければならない。その日の食事量や排泄の回数なども含まれているところもある。施設によって記録の形式は違うが、共通していることが2つある。一つ目はペーパーワークの増加に伴いパフォーマンスの質が低下していること、そして記録の質が下がってしまっていることだ。
パフォーマンスの低下は前述したように、単純な話だ。要は記録の時間が増えれば当然のように介護にかける時間を減らさざるを得ない。介護保険以後、介護は社会化されて来た。そしていろんなメディアで介護は話題になり書籍も増えたはずだが、現場レベルでは介護レベルは明らかに凋落している。それはいろんな原因があるが、現代的な記録を重視する介護が影響しているのは間違いない。この矛盾を解決するには「職員を増やす」というオプション以外あり得ないが、それは殆どの経営者も直視しない。
パフォーマンスの低下はともかくとして後者の記録の質の低下は意外かもしれない。だが、これはどこの福祉の現場でも同じだ。矛盾するようだがペーパーワークを重視するあまり、現代介護は記録物の質も著しく低下している。
今では考えられないが、俺が学生の実習生の時は実習日誌を施設に提出する時は誤字脱字を厳しく添削された。せっかく苦労して書いた日誌が返ってきた時には真っ赤になっていたこともある。これは介護する人間はヘルパーである以前にきちんと利用者に範を垂れる社会的人間であるべきだという信念の表れだった。 そこには字ぐらい正確に書けないような無教養な人間には他人の人生に影響を与える仕事をするべきではないという福祉のプライド、矜持があった。しかし、今は全く違う。実習生の誤字脱字を指摘するどころか、職員の記録物の方が誤字脱字だらけの事も珍しくない。要求される記録物が増えた現代介護では、例え誤字脱字だらけでも指摘する時間も修正する時間もないからどうしてもきちんと字も書けない職員が量産されてしまう。そして彼らが上司になると、職員のレベルはもっと低下してしまう。
記録物の質の低下は他の深刻な問題を引き起こす。そもそも文字を書く目的は何だろうか?答えは情報を伝えるためだ。 現にその目的のためにどこの職場でも変更点を伝える連絡帳みたいなものがある。しかし、何でも書きたがるために連絡事項が洪水のように増えてしまい、逆に浸透させたい情報がヘルパー全員に伝達できないという皮肉極まりない事態を招いている。きちんと読んだかどうか印鑑や署名をする欄があるが、そんなもの量が多すぎて「めくら判(差別用語だがあまりにも表現が適切だ)状態」になってしまうのだ。
現代介護はどこでも記録を重視する。だが、それは介護の質を低下させ、皮肉なことに職員のインテリジェンスを奪ってしまう。一見充実した介護記録はいい介護をしてそうに見える。しかし、それはまさしく堕落した介護を糊塗するための手段なのだ。
エル・ドマドール
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