[127]介護の教科書

2018年8月25日

今回は介護の教科書について語りたい。
俺がこの世界に入ったのはまだ介護という言葉が一般的でない時代、1990年代だった。その当時は介護という言葉も今ほど知れ渡っていない。当然のことながら介護を語った教科書やマニュアルのような書物は殆どない時代だった。その当時、介護の世界に入ったばかりの俺は本当の普通の介護というものは何ぞやと思いながら暗中模索していたのを思い出す。看護学、医学などはもう教育体制がしっかり確立されていて、きちんとマニュアルも存在していた。しかし介護は全くそういうものがなかった。老人介護に関する本はあったが、それが障害者福祉となると全滅状態だった。何でもマニュアルや教科書に頼るのは感心しないが、全く教科書も何もないよりかはマシかもしれない。
しかし、現在は介護という言葉を知らない人はいないぐらいメジャーになった。そしてちょっと大きい本屋に行けばいくらでも介護に関する教科書は平積みになるぐらい売っている。ヘルパー2級の講座に申し込めば丁寧に編集された教科書を貰えるだろう。企業や法人によって独自の研修や講義を行ったりして、措置福祉の時代に比べるとかなり教育に関しては充実してきた。
だが、それだけ教育環境が整っていてもなぜか介護のレベルは全く俺が入った時代と比べて全く上がっていない。それどころか介護のクオリティーはどんどん下がる一方なのだ。なぜだろうか?
今「新しい介護」など介護の教科書はいろいろあるが、俺はこれらの介護マニュアルについてはこのように思っている。
「参考にはできるが、絶対性を持たせるのは禁物だ」
言っておくが俺はこの類のマニュアルを全面否定するつもりはない。ただ何でもマニュアルが正しいと教条的になるのは良くないと言いたいだけだ。この本には致命的な欠陥があるからだ。俺がこの類のマニュアルに疑問を抱く最大の理由は「所詮現役に勝てるわけがない」からだ。例えば王貞治は日本野球で一番ホームランを打った打者だが、今現在ダルビッシュ有と勝負してホームランを打てるだろうか?無理に決まっている。この類のマニュアルを書く人々はかつて介護現場にいた事はあるだろう。しかし、今現在介護をしているのだろうか?介護をしていると言っても、人前で講演したりパソコンに向かっている時間の方が長いだろう。現場に現在も深く携わっていないと、どうしても現場の介護観や介護感覚が鈍ってくる。この類のマニュアルの致命的な欠陥はまさにそれなのだ。
そしてマニュアル本にある介護方法の中には誤りも多い。それはこれから版を重ねることに修正されるとしても、最大の誤りは利用者の恐怖感を全く計算に入れていない事だ。モデルが健常者ではリアルな介護される側の恐怖感をマニュアルに反映する事は出来ない。実際介護をやっていればトイレや風呂で介護バーを握りしめて離さない利用者はいくらでもいる。彼らににどうやってバーを離してもらうのか?その状況でこそマニュアルが必要だが、マニュアルの執筆者が接する利用者は物わかりのいい利用者ばかりなのだろう。その状況を解決する方法は載っていない。ちなみに利用者がバーを強く握って離さない場合は親指を外してから残りの4本の指を外すのが鉄則だ。
そもそも介護現場はマニュアルにありがちな一つの型で介護できるほど単純ではない。同じ利用者でもその能力、その時の体調、障害、またその時に抱く感情で介護の方法は驚くほど変わってしまう。一応基本はあるが、それをどう状況にフィットさせるかが大事なのだ。
例えば手引き歩行。文字通り利用者の手を引いて歩くことだが、この手引き歩行は利用者によっては危険な介護方法になる可能性がある。利用者が後ろにバランスを崩しても受け止める事ができないし、バランスを崩した時に無理に立て直そうとして腕を脱臼させる事もある。だが、人によっては介護者に腕を持ってもらう方が安心する人もいるのだ。ベストな介護方法はマニュアルではなく利用者によって決まると言うことだ。つまり介護者には利用者の状態に合わせた様々な介護方法の引き出しが必要なのだ。
「利用者本位の介護をする」と立派な事は言えても、実際にはマニュアルの鋳型に強引に利用者をはめようとする頑固者がこの業界には多い。だが、それでも最近になって福祉の教育体制が整ってきたのは確かだ。しかし、現場にいる俺には介護のレベルは上がるどころか下がるばかりだ。どうしてだろうか?それは他に原因がある。次週はその点を語ろう。
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エル・ドマドール
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