[03]脱施設化が招く悲劇(上)

皆さんいかがお過ごしだろうか?今回は前回申し上げたように脱施設化が招いた悲劇をお送りする。脱施設化を始めとして今や施設にいるのはまるで悪のように非難され、施設を出て「地域で生活する」ことが強く強調されるようになってきた。だが脱施設化は必ずしもすべての人に幸福をもたらすものではない。社会や政府の理想(エゴとも言う)で社会に放たれた人々がどんな運命をたどるのかそれを紹介しよう。
断っておくが今から紹介するストーリーはフィクションだ。本当の実例をお送りしたいが、特定を招くかもしれないのでいろんな事例を組み合わせて書き上げた。フィクションではあるがリアリティーは損なわれていない。それなりに楽しめるはずだ。
*グループホーム
ある知的障害者施設があった。周りを豊かな自然に囲まれ、30年以上の歴史があった。もともとは自治体が出資して法人を作ったため予算も普通の社会福祉法人よりも恵まれており、雇われる職員も高学歴が多く、プライドが高い人が多かった。自分たちがその地域の福祉施設の範たるべきだという意識が強かった。
脱施設化という言葉をよく聞くようになったころ、そこの知的障害者施設ではグループホームを立ち上げようと言う事になった。知的障害者を施設に閉じ込めるのではなく、「地域」に開放して自立生活をさせようというわけだ。いきなり施設から地域は急激過ぎるから、まずはその中間点としてグループホームを目指してみようではないかと提案された。この提案は最初は反対するものもなく理想的であるように見えた。
グループホームと言っても、今のよくある認知症対応型生活介護とは少し違う。あれは規模の小さい特別養護老人ホームだが、この場合普通の一軒家を借りて施設でも障害の軽い優等生に住んで貰っていた。近所の住人に世話人をボランティアで頼み、施設の職員が一日1,2回様子を見に訪ねることになった。
*共同生活
まずは女性の知的障害者2人がモデルになった。彼女たちを仮に河野と梶本と呼ぶことにする。この2人は施設でも問題行動もなく、知的能力も施設の中では非常に優秀だった。
最初は退屈な施設生活から開放され、河野と梶本も喜んでいてモチベーションも高かった。なれない料理にも挑戦し、洗濯や掃除も自分たちで行った。能力的に優秀な河野は市内の病院のトイレ掃除を(ボランティアだが)仕事として行っていた。梶本はまずは施設の作業に参加していたが、いずれは外で仕事をする予定だった。
*暗転
福祉関係者が喜びそうな理想的な「脱施設化」のモデルだが、その目論見は早くも崩れる。
1ヶ月くらいすると突然河野が「施設に戻りたい」と言い出したのだ。「どうして外に出たいんじゃないのか?」と普通の人なら思うだろう。しかし、河野は疲れていた。施設にいれば、ご飯の心配もしなくていい。外に出られると行っても、好き放題どこにでも行けるわけじゃない。行けるのは勤務先の病院と買い物するときのスーパー、そして何かあったときに駆け込める施設のみ。
早寝早起きの「理想」の生活を強いられて、休みの日もぐうたらに昼まで寝ることも出来ない。同居人梶本は能力的に河野より劣りどうしても河野にばかり頼ってきて、それが河野にかなりの精神的な負担になっていた。 河野にはかなりストレスがたまっていた。しかし、梶本も適応するのが精一杯で助けるどころじゃない。
施設から出られて自由に・・・どころか施設にいるよりもグループホームの方が皮肉なことに息苦しくなった。これでは彼女たちが自立生活を止めたがるのは無理なかった。
この河野の訴えに対し、理想の福祉を目指す職員たちはどうしたのか?なんと彼女を説得し、グループホームを続けるように強制したのだ。人権もへったくれもない。おかしなことに施設から自由にするために障害者から自由意志を奪うことにしたのだ。
*さらに状況が悪化
職員の説得もあり、優等生であり大人しい河野と梶本はその後もグループホームを続けることにする。しかし、問題は解決するわけもなく、事態は悪化するばかりだった。河野は精神的に頼ってくる梶本をストレスからか罵倒するようになってきた。梶本も河野の攻撃によく泣かされるようになってきた。
2人は一日数回訪ねてくる職員の前では優等生を演じていたが、何の権威もない世話人の前ではエゴを抑制できなくなってきた。世話人はこのころになると、2人の日常生活が荒れていることに気づくようになってきた。洗い物が貯まるようになり、掃除も行き届かなくなった。
能力が高い河野が最初はよく洗い物や掃除をして、梶本がするときも河野がフォローしていたが二人の仲が悪くなるにつれて家事がうまくいかなくなったのだ。河野は梶本が自分にばかり家事をやらせると言い、梶本は理不尽に河野に罵られていると言う。梶本も河野のフォローなしで家事をするのだが、どうしても細かいところまできちんとできなかった。
悪化するばかりのグループホーム生活だがある日、2人は決定的な局面を迎えることになる。
少し長くなった。この続きは来週にお送りしよう。脱施設化の職員の理想・・いや利用者の都合を無視するエゴのために犠牲になるのは弱い立場の知的障害者や老人、身体障害者である。施設生活が長い障害者たちに社会生活を強要しても前号のジンベイザメ同様簡単には適合できないのだ。
エル・ドマドール