[62]チャイルド・セイフティー(3)

2018年8月25日

しつこいようだが3回目のチャイルド・セイフティーを語りたい。
諸君はもっとも子供の脅威となる存在は何だか解るだろうか?子供を誘拐しようとする変質者、常識のない教師、容赦のないいじめっ子、これらも脅威だがもっと危ない存在がいる。俺は反発は覚悟ではっきり言いたい。子供にとってもっとも脅威となるのはその家族、特に親だ。理由は単純だ。子供ともっとも肉体的にも精神的にも結びつき、一番過ごす時間が長い(と思われる)からだ。今まで子供の安全について親の責任をかなり指摘してきた。今回は親をかなり非難する内容だ。すでに親になっている読者諸兄は気分を悪くするかもしれないが、大事なことなのでお付き合い願いたい。
子供にとって親とは最大の保護者である。もし親がまともならこれほど素晴らしいことは無い。愛情と絆で結ばれた子供は健やかに育つだろう。しかし、同時に親は最悪の破壊者でも有り得るのだ。ろくでもない親に育てられた子供は将来、警察のお世話になるなどやはり行動面や精神面でも破壊的な性質を持つようになる。無力な子供に親の影響力から逃げる術は無い。お役所主義そのものの児童相談所や民生委員、警察、病院は子供が死体にならない限り介入をしようとしない。事なかれ主義の大人たちは頼りにならないことこの上ない。親がだらしない子供は本当に気の毒としか言いようが無い。今の時代、親になるべきではない未熟な人間が平気で親になる時代なのだ。
一方、子供を立派にするべく塾など教育に投資を惜しまず、躾に妥協しない人もいるだろう。子供に熱心なのは良いことだが、何事も過ぎたるは及ばざるが如しであることを理解して欲しい。例えば子供を躾けるために体罰を実行する人もいるだろう。社会人が一般社会で暴力を振るえば単なる「犯罪」になるだけなのにどこかの某知事のように「教育に必要」だと肯定する向きが絶えない。虐待事件にまでなるぐらい叩くのは良くないが、多少の体罰は有効だと二重基準を述べる人もいる。しかし、俺ははっきり言っておく。もし子供にまともに育って欲しいなら暴力を教育手段にしない方がいい。凶悪犯罪者の殆どは親の暴力の犠牲者だったりすることが多いからだ。俺がそういう風に考えるのは知的障害者施設に勤めていた時の体験が大きい。そのエピソードを紹介しよう。
俺が知的障害者施設に勤めていた頃の話だ。そこは問題行動の多い知的障害者が多かった。その中で酷いのが暴力行為。ストレスがたまり、パニックを起こすと他人に暴行を振るう障害者が必ずいた。女性職員が180センチ以上の大柄な知的障害者男性に殴られて鼻の骨を折った事もあった。知的障害者の暴力行為は確かに怖いが、全員が全員暴力を振るうわけではなかった。中にはパニックになっても他人には危害を加えない知的障害者もいた。知的障害者だから暴力を振るうわけではないのだ。暴力を振るう知的障害者と振らない知的障害者、その違いはどこにあるのか?俺はその点を疑問に思い続けていた。そしてやがて一つの結論に至った。
知的障害者がどうして暴力を学習するのか?それは結論を言えば大人たちが自ら彼らに殴ることを教えている。幼い頃に教育や躾と称して親や教師たちから体罰を受けた知的障害者は大きくなるとその牙を親や介護者などに向けるようになる。つまり皮肉なことに彼らは親や教師に殴られることにより暴力の使い方を学習している。まだ抵抗力の低い幼少期なら体罰もそれなりの効果があるように見える。しかし、殴られて育った知的障害者は大人になると今度は自分たちが暴力で復讐を始めるのだ。力関係で下になった大人たちにとって大きくなった知的障害者の攻撃は壮絶なものだろう。しかし、それこそ自分たちがまさに彼らにしてきたことなのだ。健常者なら例え殴られて育てられても、無闇に他人に暴力を振るわないだろう。だが、知的障害者はIQ80以下の知能しかない。せいぜい良くても4,5歳の知能しかない。だから所かまわず暴力を振るうなど社会適合に重大な障害を抱えるのだ。
体罰で教育することを「本人の為を思う愛情」だと正当化する人々は多い。老人施設や障害者施設、保育業界では「本人の為を思う暴力」はどんな形でも許されないのにも関わらず、教育の世界では時にこれがまかり通る。だが、俺はここでも言いたい。体罰など愛情ではない。それは自己コントロールできない大人たちの弱さの体現だ。現に子供たちは健常者にしろ、障害者にしろ、大人たちの体罰の本質をよく見抜いている。大人たちが子供たちを叩く本当の理由は愛情ではない。大人たちの満たされない欲求不満や怒りなどを解消するために弱いものに八つ当たりするのだ。子供たちは大人たちのそういう行動を目の当たりにして自分たちも怒りや不満などをこのように解消してもいいものだと学習してしまうのだ。これは健常者も障害者も同じだ。健常者は確かに大人になっても見境なく暴力を振るったりはしないだろう。だが、子供時代に培った残虐性は消えない。怒りや欲求不満など攻撃衝動の処理を何らかの暴力の形で解決するのだ。それは何も殴る蹴るなど直接他人に向けるとは限らない。時には人間関係のトラブル、精神疾患、自傷行為などに現れることもある。
子供の感性を甘く見てはいけない。子供は親の言葉ではなくその行動を見て学習するのだ。親に幾ら勉強しろと言われても子供は勉強しない。親自身が勉強などで自分に艱難を課そうとしないからだ。親自身が艱難辛苦から逃げているのにどうして子供にその必要性を解らせることができようか?子供に勉強をして欲しいなら親も勉強するべきなのだ。子供は親の話は聞かないが、その背中を見て育つ。高邁な思想は口にする親は多い。しかし一番大事なのはそれを実践する事なのだ。
エル・ドマドール
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