[99]介護過誤

誰しも医療過誤という言葉を聞いたことがあるだろう。医療過誤は医療ミスと考えてもらえば結構だが、主に診断ミス、検査ミス、手術ミス、投薬内容及び投薬量のミス、薬の副作用、看護ミスなどを指している。虫垂炎をただの食当たりと誤診したり、逆に何でもない腹痛を虫垂炎と誤診し、虫垂を誤って切除することもある。
医師は難関の大学に合格して国家資格に合格していることから頭脳は優秀のはずだが、医療現場は相変わらず過誤が絶えない。いやもはや過誤の存在を前提に医療は存在していると言っても過言ではない。
医療にミスや過誤があるのはもう社会的に認知されているが、実を言うと介護にも過誤がある。意外と認知されていないが、介護業界は医療と負けず劣らず間違った介護が大手を振ってまかり通っているのだ。俺はそれらを介護過誤と呼びたい。
医療ミスが危険なのは下手すれば即刻、「命の危機」に繋がるからだが、介護の過誤はさすがに生命に危険なことはまだ医療に比べれば少ない。しかし、前にも言ったが介護は一生続く。そこで蓄積された介護過誤は利用者のADLや尊厳や信用、長期的に見れば命まで奪いかねない危険なものなのだ。残念なことに福祉の業界では間違った処遇や介護方針に対する研究は全く議論されていない。だが、介護過誤は間違いなく存在する。今回はそれを読者諸兄に伝えよう。
介護過誤を一言で言うなら「利用者の現在の状況に合わない不合理な介護および方針」と言える。理屈で言っても解りづらい。具体的に説明しよう。
老人施設などでは認知症が原因で時々自分の部屋が分からなかったり、他人の部屋に誤って入ってしまう人がいる。多くの施設ではこのような人々に対して、いろんな対策をしている。その内の一つがその人の部屋の入口に目立つように目印や名前を書いた大きなラベルを扉に貼ることだろう。よくどこの施設でもこのような事を実践しているが、多くの場合これは全くのナンセンスだ。視力が低下してわかりにくい=大きな目印を付ければわかりやすい。と単純解釈してこんな真似をしているのだろうが、この障害はそんな子供だましで解決できるような単純なものではない。
自分の部屋の区別がつかない人々は多くの場合、見当識障害(自分のいる場所や時間、状況が理解できないこと)を起こしている。見当識障害は記憶力の低下と判断力の低下がミックスされたかなり複雑で難解な障害なのだ。そんな状況にある人にたいして、扉に趣味の悪い造花やA3のワープロ用紙に名前を印刷して扉に張り付けても多くの場合、問題の解決にならない。そもそも自分の今いる施設になぜいるのか?その前提すら理解できていないケースなど深刻な記憶障害をおこしている場合は全くこのような対策は無意味だ。少なくとも俺のキャリアでこんな方法で徘徊や見当識障害が解決できた経験はない。他にもこんな事例はあるはずだがほとんど介護者やこの経験からこんな馬鹿げた対策は無意味だとなぜか学習しない。
他にも馬鹿げた介護過誤はある。多くの病院や介護施設では褥瘡(「じょくそう」と読む。いわゆる床ずれ。同じところを圧迫して皮膚が壊死する現象のこと)が発生した利用者がいるとすぐにエアマットを入れたがる。エアマットとは空気で脹らますマットレスのようなものだが、実はこの行為はあまり意味がない。全く意味がないとは言わないが、敢えて手間暇かけてエアマットを入れる価値はない。
なぜ褥瘡ができるのかと言えばいろんな要因はあるが、一番大きいのは体の同じ部位を長時間(短いと2時間ぐらい)圧迫しているからだ。つまり利用者が同じ体位で長時間過ごすことがないように定期的に体位交換する必要があるのだが、実を言うと体位交換がきちんとできない介護者がかなり多いのだ。特に側臥位(横向きで寝る体位のこと)の時に尾骨がマットから浮かせられてない人が多い。こうなると側臥位でも仰向けでも長時間尾骨が圧迫されていることになってしまう。だから褥瘡になる。体位交換は案外難しい技術なのだ。
エアマットをなぜ入れるのかと言えば柔らかいマットを入れれば褥瘡になりにくいと考えられるのが理由だが、愚かさにも程がある。エアマットだろうがトゥ○ースリーパーだろうが、地球の重力は平等に掛かる。どんな優秀なマットレスでも地球の重力に逆らうことはできない。つまり、正しく体位交換できない限り、エアマットにしても褥瘡にならないわけではない。ただ普通のマットレスなら2時間で褥瘡になるところが、エアマットなら3時間になるだけだ。全く意味がないわけではないが、根本的な解決には至らない。中学生程度の理科の知識があればこんなこと理解するのはたやすいはずだが、介護業界や医療業界はそれ以下のレベルなのだろう。いまだにエアマットを止めようとしない。
介護保険が制定される前、2000年以前も介護の世界は偏見と誤りだらけだった。しかし、2000年に介護保険が制定されると、介護は社会化され客観的に介護技術が評価されるはずだった。しかし、介護が世の中に知れるようになっても介護過誤はなくならない。そればかりか馬鹿げた理想のもとに過去の介護方法を否定した結果、もっと介護過誤は複雑化してより頑迷になった。
例えば近代介護では「オムツを外そう」という傾向が強い。
例えば、オムツとパットの2重重ねを止めようとする動きがある。パンツの上にパットのみを装着するところが増えた。しかし、その結果は裏目に出ていることが多い。以前はパットを交換するだけで済んだのだが、衣類を汚すほどの失禁が多くなり利用者を辱める機会を増やしている事実がある。
またオムツを普段していても、1日に何回かはポータブルトイレに座らせたりする介護方針を立てるところがある。立位状態ができないのになんとかオムツを外し、ポータブルトイレに座らせて排泄させることに意味があると信じている。これに意味がある利用者も確かにいるだろう。しかし、オムツを外すという理想に固執するあまり、その方法がその利用者にとって適切か否か評価しようとしないケースが多い。その結果不要な屈辱を利用者に与えているケースが圧倒的に多い。
そもそもなぜオムツをしているのか?いろんな原因はあるが、一番大きいのは認知症や脳血管障害などが原因のため尿意や便意の感覚を感じることができないためだ。本人に尿意や便意を感じることができないのであれば、立てないぐらい運動能力が低下した人々相手にポータブルトイレに座らせても苦痛なだけの事が多い。しかも、立てない人に対してオムツを外した上でポータブルトイレに移乗させるため、どうしても強引な介助になりやすい。その結果要らない苦痛や外傷まで与えることが多いのだ。
他にも福祉の世界では誤った介護、介護過誤が多い。理想という偏見に取りつかれているのも理由だが、利用者の変化を見逃していることが多い。当然だが、いつまでも状態が変わらない人間などいない。人間年齢を重ねれば衰えるのが道理だ。骨折などの病気や認知症の進行で劇的に変わることが少なくない。かつてできていたことが1ヶ月後、1週間後にできなくなっているのは老人福祉では珍しいことではない。利用者の状態を観察する技術が必要なのだ。
エル・ドマドール
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