第7回 マスコミの落日と不信任

2019年12月9日

僕は新聞を購読してない。昔から新聞を読む癖はなかったが、文章を書く仕事を始めてからまったく読まなくなった。一番大きい理由は「活字になってしまったネタはもう古い」のと、やはり自分の直感を大切にしたいからである。Yahooのホームやテレビニュースを流し見るだけで世の中の動きはだいたいわかる。

新聞を読まなくなったもう一つのきっかけが住専問題だ。もう懐かしい話になってしまったが、当時自分は住専問題の中心に近いところにいた。誰が書いたシナリオか知らないが、マスコミがいっせいに事実を意図的に隠した反銀行キャンペーンをやった。渦中にいたから、いかにマスコミが事実を伝えないか、世論を操作させられているか身をもって知ってしまった。

自分が文章を書く仕事をするようになると、調査や審査活動そのものを自分があらかじめ持っていた「結論」に予定調和するようレポートを組み立ててしまうことに気づく。物事には多面性がある。しかしながらある一定の結論というか先入観があると、その結論を補強する面しか見なくなってしまう。個人的なレポートでさえそうである。

この業界にも朝から晩まで新聞を読んで過ごす高給取りが結構いる。新聞を読むのが仕事ではないはずなのだが、彼らからクリエイティブな提案を聞くことは稀だ。朝、銀行の店舗に行くと支店長と副支店長がそっくりかえって新聞を読んでいる光景を今でも見ることがある。そんな店に行くと本当に暗い気持ちになる。こんな支店長のいる店とはおつきあいしたくない。新聞なんて偉そうに読むほどのもんじゃない。もちろん日経も含めて。

このコラムにも千人以上の読者がいるらしい。望外の幸せである。ということは、マスコミの危うさをみんな気づいているのかもしれない。情報が偏在しない、一方通行でない、ソースが多様という点でインターネットは新たな文明のスタイルになりうる。ネットが進んだ国では、全体主義や戦争ができないような気がする。マスでしか対象を切り取れない政治やマスコミはどこに行くのだろうか。

前回のコラムで僕は不信任案可決と予想した。結果はごらんのとおりである。僕の完敗だ。でも今回の加藤の反乱は、久々に政治がマスとしての国民を相手にできたショウになった。しかも内閣が不信任はされなかったが、政権自体への不信感が増幅したという奇妙な結末は、物語の始まりとしては十分におもしろい。造反した連中に対する風当たりは強いが、永田町のチンケな芝居小屋を満員御礼にした加藤と野中の功績は大きい。主役ははれなかったが照明や大道具、作家など幕の影での活躍を期待したい。

2000.11.23