第8回 街金融の話
日栄と商工ファンドの話。日栄も商工ファンドも中小企業金融という肩書きを持っている。でもこれでやっていることは全然イメージできない。いわゆる街金(マチキンと読む)さんのことで、漫画好きの方は「ナニワ金融道」を思い出されると思う。ナニワ金融道に出てきた帝国金融は小さな街金だけど、その親玉みたいなものが日栄と商工ファンド。両社とも上場している。
街金さんの仕事は、中小企業で銀行などが相手にしてくれない企業に資金を融資すること。「銀行が相手にしない」というのは、要するに「返済のあてがないのでもうおたくには貸せません」と見限ったこと。不景気だし。じゃあなぜ街金さんは銀行が貸せない相手に貸せるのか。
理由は主に2つ。ひとつはべらぼうに金利が高いから。通常銀行が貸す金利は数%だが、街金さんの所に行くと、相手にもよるけど銀行の最高10倍ぐらいになる。非合法なものまで含めればもっと高い。もうひとつは本人はもちろん保証人への取立が厳しいから。
今直接問題になっているのは後者の取立の厳しさである。具体的には「目ん玉売れ、腎臓売れ」というやつ。このような暴力的取立は法律上許されてない。保証書の代筆などの問題も出てきてるがこれは金融業にとっては日常茶飯事なのでここでは触れないこととする。
もうひとつ特徴的なのは金を借りた本人ではなく、(連帯)保証人への返済要求が非常に激しいこと。ひどいところは最初から保証人から取るつもりで金を貸す場合もある(ここが銀行と違うところ)。連帯保証人というのはほとんど借り主本人と同じ返済義務がある。中小の街金さんだと大きな問題にならないが、上場会社がやるとマスコミのネタになってしまう。もちろん日栄を弁護する気持ちはあまりないが、マスコミもたたきすぎだと思う。だいたい問題が表面化するまでは、日栄のCMをばんばん流していたくせに。
お金は命の次に大事だと人は言う。その命の次に大事な金の貸し借りをやるのだから腎臓ぐらいは返してやってもいいんじゃないだろうか。もちろんこれは暴言だが、金を返すと言って借りておいて返さない連中が一番悪いのである。この視点があまりにもマスコミには欠けてやしないか。
昔は街金に行くこと自体は相当な覚悟が必要だったし、返せなくなったときには裸になるのもしょうがないという理屈が借り主にも通った。今は気軽に借りて気軽に自己破産だ、返せないんだと居直る。ある延滞先に取立に行ったところ、2匹も猫を飼っていた。キャットフードと猫の砂を買うカネはあっても人様にお返しするカネはないという。幾重にも抵当のついた家に住んで「この家を守っていくのが私の役目」などと言われれば債権者だってキレる。
これじゃあ取立がどんどんエスカレートしていってもしょうがない。だからといって暴力的な取立をしていいことにはならないが。日栄の社員はきっとこう思ってる。「おっかしいなー。昔からこうやって取り立ててたのに急にだめって言うんだもんな」。
弱者に優しい社会は立派だけど、何か釈然としない。金を借りて返さない人は弱者だろうか。もちろん日栄も悪い。もう上場した大企業なんだから、いつまでも昔の流儀じゃどっかでだめになるぐらいの経営感覚はあって当然。そういう点でコンサルタント的に言えば、経営の近代化を怠ったということになるんだが。
さて、僕の街金さんに対するスタンスは「必要だけど自分には縁があってほしくないもの」だ。街金だって重要な仕事をしているわけで、街金のおかげで立ち直った企業は非常に少ないながらも結構あると思う(そういう話が表沙汰にならないのは、街金に世話になった事実を経営者が公言しないから)。 ただ、街金に世話になるということは、「三途の川を自分で渡る」のと同じだと思う。だから自分のお客が怪しくなってくると、「絶対に街金に行くな」「行くんだったら取引を切らせてもらう」ぐらいは言うし、実際に街金で借りたら取引は解消方向だ。というより街金に行かせないのが銀行の仕事だと思う。
経営者がなぜ三途の川と知っていながら街金の門をたたくか。これはもう複雑極まりない心情だという。経営者にとって、育ててきた会社は子供と同じくらいかわいいものらしい。子供が病気になればそれこそ全財産を投げ出してでも助けたいと思うのが親。子供を死なせることができないのだ、というか死んでいても死んだと思いたくないのだ。だから万に一つの可能性を求めて保証人をでっち上げてでも街金の門をくぐる。金の貸し借りは命の貸し借りとは違うが、似たようなものだ。だからこそドラマがある。
死んだ子に与えるとわかっていてミルクを売るのが街金の商売。不承知で買うのが経営者。互いに人間の心の弱さが取引の種だ。どちらにも悲しい話だと思う。
2000.11.26