第18回 私どうすればいいんでしょう

2020年1月15日

 「私どうすればいいんでしょう」このセリフを先週は2回聞かされた。二人とも恥ずかしながら当社の本部管理職である。相当の役職と給料の方である。今回は中高年の方には耳に痛いかもしれないが、若い人にも多い話である。

 一人目は、支店の引越を目前にして店舗レイアウト変更の社内稟議を他のセクションに押しつけてきた。この人は数ヶ月前からこの仕事に取り組んでいたが、支店の要望と従来の半額以下という予算制約を折り合わせることができなかった。で、最後の最後に関係のない部署に振った。何度か前科があったため、さすがに今回はお断りした。そのときのセリフがこれである。

 二人目は、係長会議の案内状作成を任されていた部長代理である。時代に沿った効率的な新しい会議のやり方を創るよう要請されていた。案内期日が迫って「やっぱりできません。私はどうすればいいのでしょう」であった。ちなみにこの人もほぼ1カ月この仕事しかしていない。この人は、「私はパソコンができないから、案内状が作れません」と言い訳しているが、信じる者は誰もいない。仕事自体ができないのだ。

 「私はどうすればいいんでしょう」。これは入社間もない新人が上司に対してのみ許された言葉である。ところが、今やベテラン社員のセリフとして社内にとびかっている。ここに日本の企業や中高年がかかえる大きな問題を感じる。

 日本の大企業は、高度成長以降、長らく「仕事」ではなく単なる「作業」を延々とやってきた。社長や頭取から平社員まで、前任者の敷いたレールを黙々と歩いてきた。白いキャンバスに、己の感性でもって絵筆をふるうことなく、下書きのある印刷物に、いかにきれいに、そして丁寧に色をつけるか、いわば塗り絵のような作業をやってきたのである。さらに、その塗り絵さえ、いまではITというカラープリンタであっという間に済んでしまうのだ。

 彼らは、作業しかできないこと、その作業さえきわめて遅いという二重の意味で不要な人材となってしまった。おそらく、新しいタイプの「仕事ができる」と言われる人は、彼らの百倍以上の生産性を発揮すると思う。この百という数字は強調でも誇張でもない。世の中がもう変わってしまったのだ。

 社会の前提条件が逆回転し始めた今、下絵自体がすでに間違ってしまっている。件のセリフは、下絵から作らなければいけない仕事を前にした塗り絵師の言葉である。

 日本の労働者は社会構造の変化とITのダブルパンチを受けてしまった。上述の部長代理は、自分がパソコンを使えないことと会議の案内や資料を作れないことを都合のいいように混同している。このダメ中高年は企業の活力をいろんな面でそいでしまう。でもクビにはできないのだ。この人にだって家族がいる。

 僕はこのセリフを吐いた本人が悪いとは思わない。むしろ気の毒だと思う。ただ、最近の「私はどうすればいいのでしょう」という言葉には、新人が口にするときの恥ずかしいという感情はなく、傲慢さと開き直りが感じられる。

 地位や給料に見合った仕事はできないのだから、そしてやろうとする気持ちがないのなら、企業としてはさっさと退場願いたい。これが昨今のリストラの本質である。単なる円高不況やコストカットの首切りとはわけが違う。だからリストラ組が再浮上するには、パソコンを勉強していてもダメだ。創造力を養って自己責任で社会に再度チャレンジするしかない。

 自分に与えられた役目を棚上げにして、「できません」「やってください」という社内禁治産者はこれからますます増えていく。この部長代理さんには、とりあえず有能な女の子を一人つけているが、彼女は「私の仕事はヘルパーです」と言ってはばからない。介護されている本人にその認識がないからもはや喜劇を通り越した悲劇である。

 自分がどうすればよいのか、それは他人に求める答えではない。自分を見つめ直して再出発するための起点である。それをせずしてITを呪い社会にすねるか、それとも、もう一度青春を見つけにいくのか、どちらが豊かな人生の扉なのかおのずとわかるはずだ。下絵がないと言ってオロオロするのではなく、白いキャンバスに線を描く爽快さを、企業も社会も個人も思い出す時期にきていると思う。

2001.02.11