第21回 長野と東京

2020年2月11日

 知事の話。長野と東京の知事は、双方民意の歓迎を受けて就任した。地方自治、ひいては新たな政治のスタイルをつくる逸材として期待されているのは承知の通りである。

 ところが、この2人の施政に大きな違いがある。

 両知事とも均衡財政(要するに借金からの脱出)を目指していながら、そのアプローチが異なる。石原知事は入ってくる資金を大きくしようとし、田中知事は無駄遣いを聖域なしに減らしていこうというものだ。

 もちろん、東京だってそれなりに出るカネを削っているのだが、それは、例えば入る金がないからといって、インターネット万博への参加をとりやめたり、横田基地の返還など、東京がこれまで強いられてきた義務を断って、権利は権利として主張する形が多い。都外からの乗り入れ車両や旅行者、銀行に税金をかけるといった徴税も実現されそうである。以前のコラムでも書いたが、東京都民以外からカネをとる発想だ。知事という立場から見ればこれはこれで良いのだろう。

 一方、長野の田中知事は均衡財政を目指すと言うよりは、これまでの日本の政治や文化、豊かさの観念そのものに対する挑戦といった感じがある。海のない長野にとっての主要な公共事業であるダム建設を縮小するという。地場業者・経済にとっては死活問題である。いくら平和ボケしたこの国でも、暗殺されかねない行為である。対して石原知事からは公共事業見直しというキーワードはあまり聞かれない。

 両知事のこれまで活動していたフィールドの違いからくるものだろうが、東京と長野の違いは、ちょっと見ではリストラかリエンジニアリングかの違いでもある。もっと深く言えば、東京はこれまで通り経済という範囲で行政を行っているのであり、長野は文化の政治を目指しているように見える。田中知事の「しなやか」という言葉に込められたものは、単純に柔らかい頭で発想しなさいということではなく、行政を違う切り口で行うという全国民への意思表示だったように思うのだ。

 短期的には東京の試みの方が確実に成功すると思う。フトコロにカネが入ってくるから都知事には常に民意の応援があるが、長野は県民の価値観の転換だけが頼みの綱だし、数字で確認できる成功はもともと目指していまい。もちろん、地元の土建業者を干上がらせない程度に、新しい仕事とカネはばらまかざるをえまいが、その中でゆるやかに経済体質や価値観の転換を試みるつもりだろう。

 10年先、このままいけば東京と長野はまったく異なる方向へ進化する。ある町内会に例えれば、少し前まで気前の良い旦那だった東京家は、自家の庭先や玄関先が多少きれいになるだけで、隣近所やご町内にとってはちょっと迷惑でやっかいな存在になるだろう。対して長野家は、ずいぶんと見栄えは悪くて貧乏そうだけど、なんとなくあそこの家族は仲良しで楽しそうだね、というお宅になるのだろう。田中知事の思い通りになれば。失敗すれば悲惨だが。

 「豊かさ」を何で測るか、という視点で見れば、両者の違いがよりはっきりするが、ふたつのうちどちらが良いかは軽々しく判断できないのだと思う。問題は、このような隣家の動向を横目で見ながら、「ウチとは関係ない話」といって鍵をかけて閉じこもっている他のお宅だろう。

2001.03.04