[04]仕事難(1)

2018年8月6日

病院へ行きながら通院(2件目)を始めた私でした。私の仕事は夜遅くまで残業も多く、一般的には辛い職業に入るのかもしれません。でも、会社の友達(Kさんをはじめとした)はとても良い方々です。そんな方々に支えられながら私は仕事をし続けていました。仕事は楽しかったのです。
この楽しい職場、自分の好きな仕事へつけるまでの私の道のりを聞いてやってください。
思い返してみれば中学から何も考えずに高校へ進みました。そりゃぁ周りはみんな高校へ行くと言うし。親も学校も高校へ行くのは当然。世間一般の考えからしても高校へ進学するのは当然でしたから。ですから、何の深い考えも持たずに高校へ進みました。
高校2年くらいになると卒業後の進路に向けて選択授業が多くなるので、否応無しに自分の将来を真剣に考えるようになりました。高2の初めごろ、何を思ったか私はパソコンが欲しくなりました。インターネットが家庭に普及し始めた時(テレホなんかも出た時)だったからかもしれませんね。
親に相談すると、「そんなもの買う余裕は家にはない!」で終了。そのため、自分でローンを組んで購入。家でパソコンをいじる事が増えていました。そんな私は、チャットとうで話している時、パソコンを使った技術職の方々の話しを聞く機会が多く、自分もそんな職業につきたいなぁ・・・・。と思っていました。
チャットでそういう職業の方々に相談したり、インターネットで専門学校について調べたりして、卒業後の進路をパソコンの専門学校へ進む事を決意しました。選択授業を決める前、3者面談がありました。母と担任のI先生を前に自分の考えを述べると、母は自分が兄弟が多く、お金も無かったので中学までしかすすめなかったこともあり、大学へ進む事を強く勧めました。
通っている高校自体が進学校だったためI先生も大学を勧めてきます(当然です)。大学のリストまで出して、「この大学なら合格間違いなしだから!」とI先生が言えば母もテンションをさらに上げて学歴の大切さを熱く語る。そんな説得にも応じませんでした。結局I先生も母も説得した押して(家では両親に泣きながら頼んで)専門学校へ進みました。
専門学校へ進んだ私はバイトと学校で凄く忙しかったです。高校生の頃、欠席過多で親呼び出しという事にまでなっていた私が欠席どころか、電車の遅れ以外では遅刻も無かったのです。授業も高校の時は、ほぼ全教科寝てました。しかし、専門ではまじめに受けました。
学校が終わり、すぐに夜中までバイト。そして、家に帰って学校の課題等をやり、また学校。バイトのない日は学校に遅くまで残って課題なんかをやっていました。平均睡眠時間は2,3時間だったと思います。それでも辞めたいとも嫌だとも思わなかったのはきっと、本当にやりたいことだったからなのでしょう。
しかし、この忙しくも楽しい専門学校は半年しか続きませんでした。私には3つ上の兄貴がいます。彼は、私とは正反対の人間です(性格も好みも全て)。彼は大学へ通う為に2年浪人しました。ですから、私の専門学校入学と彼の大学入学は同時だったのです。
専門へ通い始めて半年後、夏休みちょっと前だっとおもいます。母と車で買い物へ行き、帰ってきたとき母は、車を降りずに「話がある。」と言いました。「何?」と聞くと、「頑張ったんだけどね・・・・どうしても2人分の学費は払えないの・・・・」そう悲しそうに涙を流して言いました。私もうすうすわかっていたのです(進路を決める頃から)。
「だから、私言ったよね?願書出す前に。最後まで通えないなら嫌だから、大丈夫なの?って何度も聞いたよね?」そういうと母は黙って頷くだけ。母の気持ちはわかっていました。兄貴は長男で1人息子。男だし、大学くらい出ていないと。それに2浪までして入ったその大学は結構有名大学で学部も凄いところだったのです。だから、私に言ったのでしょう。
私は「育英会とかで通っちゃだめ?」と聞くと。母は「家の仕事をしばらく手伝って欲しいの・・・・(家は自営業です)」と消え入りそうな声で言いました。そんなただただ、泣いて謝る母を見て私は何も言えなくなり「分った。学校に話してくる。」と一言いって車を降りました。その夜、私は何もやる気が起きなくなり・・・ただボーっと過ごす事しかできませんでした。
翌日、学校へ行き、担任の先生に事の全てを話しました。先生との話し合いは結構長くかかりました。こんな私を引き止めてくれたりしてくれていたもので・・・・。その後、退学願いを学校側に出し。私の専門学校生活は終わってしまったのです。
長くなったので続きは次回に。
岩倉 玲uten.co.jp/b/000b02be.7b80a7b7/” width=”1″ height=”1″ border=”0″>

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